昭和46年05月27日 朝の御理解
1御理解 第61節
「神より金光大神に、何時迄も尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をして行くのが、真の道を踏んで行くのぞ。金光大神が教えた事を違わぬ様に人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。是れが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」
尽きぬおかげを尽きぬおかげを頂けれると云う事は、話を聞く事によって本当な事が解らせて貰い、本当な事が分からせて頂くによって本当なおかげが頂かれる。本当のおかげが受けられると云う事だと思うですね、尽きぬおかげと云うのは。ですからどうしてもそこに本当な事が分かり、本当な事が信じられる信心を分からせて貰い。それを実生活の上に現して行くと云う事にならなければならない。そこに所謂金光大神のお取次ぎのおかげによって、おかげで助かったと言う助かりの姿があると思うんですね。
お参りをするお願いをするおかげを受ける。成る程そう言うおかげも、やはりおかげですし。ね、例えば病気なら病気が医者や薬に頼ると云う様、そうして行くと言うのですけれども。まあそういう意味もありましょうけれども。まあ少しずつその所を深めて頂くと申しましょうかね。本当の意味に置いてです。今使って下さる様に真の道を踏んで行くのぞとか、真の信心をさせるのだと言うておられます。
ですからね。自分自身が真の道を踏んでおらなければ人に真の道を踏ませる等と言う事は、奥がましい事になる訳ですよね。金光様にお参りしてから、成る程万事お繰り合わせを頂きますと言った様な程度のものであってはね、それが真の道を踏んでおると言う事やら、真の道、真の信心をさせると言った様な事は出来ない。やはり自分自身がおかげを受けると言う事は、真の道が分かり、真の信心をさせてもろうて。其処に現れて来る尽きぬおかげ。いわゆる真のおかげ、真のおかげ。
そう言うおかげをね頂かせて頂く。そこから導かれた者もそれに見習うて来る、それに神習うて来る。成る程真の道を踏んで行くと言う事になって来る。成る程神様へのお礼と言うのは其処まで行かなければ本当のお礼と言う事にはならないだろう。私は大変難しい事を今日は、まあ言うておりますけれど、もう実は私共が助かると言う事は、其処より他にないのです。私共が助かると言う事は、ね。
今日はその辺の処をですね、一つおかげを頂いて行きたいと思います。私は何と言ってもねです、私共の助かりと言う事はね、あの人は助かって御座ると言う事はね、不平不足のない事だと思いますね。私共がね不平不足のない生き方生活。私は本当に金光様の御信心を頂いて、本当な事が分かり出したらね、不平不足は起こって来ないと思うんです。ね。是れはまあ、本当な事と言う、ね。
例えば私が神愛を説きます。ね、いわゆる真の愛です親の愛です。または神の愛です。ね。その神愛を私は感じ分からせて頂く様になったらね、もうそこにはね不平不足などは起こって来ないはずなんです。それはその難儀な問題などもあります、もう限りなくあります。ね。その難儀な問題や、難儀な問題に感じられなくなって来るんです。ね。本当な事が分かると、神様が此の様にして親なればこそ、神様なればこそ、ね。と言う事になりますから、不平不足は起こらんでしょうね。
そこから生まれて来るのは、もうただお礼あるのみと言う事になる。ね。人間が本当に幸せに、幸福であると言う事やら助かりと言う事はね、もう不平不足のない生活。ね。其処でです、そう言う例えば簡単に癒される所の事なんですけれども、処どっこい難しい。ね、その事が非常に難しい。だから世の中には幸福な人と言うのは本当に、もう本当に少ない事です。健康であるお金もある。子供達の出来もええ。
物やらお金に不自由はない。何処を押せば不平不足がね、あるだろうかと云う様な人が、もうそれこそもう自分の心が病むばかりに悔やんでおる。もう話を聞いておると、もう本当に、もう昨日もうそう言う、例えば参って来ましたがね。もう恵まれ過ぎぐらいに恵まれておって、まあ不平のある事、ある事。第一に息子に不平がある、嫁子に不平がある、孫達にまで不平がある。もう驚いてしまう。
少しは信心のけいこも出けておられる方なんだけれど。もう全てがもう不平不足の対象にしかなってない。まあ、それを一つひとつ聞かせて頂いて。それはアンタの、皆アンタの、言うならおかげばっかりじゃんのち言うちから、言うごたってけども、せっかくもう、本当悔やみなさるから、ほんなこってすねえち言うちから私聞いておりましたけれども。もう、悔やみ出したら限りがないと言う事、人間は。ね、
本当の助かりになっていないからです。何処の節からか喜びを見出してですね、その喜びを大きくして行こうと云う様な精進をしてない訳ですね。是は大げさに言うのではなくてね、本当に私共の心にその言葉には出さないに致しましても、そう言う不平不足の限りと言う限りね、と言うものが私共の心の中にある一杯。ただ言葉に出さないだけの事。だから心で思って口に出さないなんかは、ある意味で正直だという事になる。ね。果たして息子に嫁子にも孫達にでも、本当に感謝の心でお礼の頂けれるかと。
喜んである様にあるけれども、またその底のとこを探って見るとです、やっぱり不平不足を持っておる。そう言う心が、認めていない心の中に一杯なの。ね、そう言う中から助かって行こうと言うですからね、これは難しい信心は。人間は不平不足の塊のごたる。そこで様々ないわゆる尽きぬお話を聞かせて頂く。けれどもそれが尽きぬおかげに繋がって行かないと言うのはどうした事であろうかと。
昨日午後の奉仕をさせて頂く時に、上野先生が出て参りましてから。今朝から若先生から、「上野先生、今朝方、私あんたが死んだ夢を頂いた。もうアンタが死んでから、ちゃんと白衣に着せ替えられちから、まあ、おかんの中に納められるばっかりのその様子を夢の中に頂いた」。そういやあこの頃はどうも体の変調があって、体が手足が腫れたり。まあ何と云えぬお知らせに、おっくうであったりするんですから、是れは本当に自分の死期が段々近づいて来よるとじゃなかろうかと言う訳なんです。
もうそれに、私なんかの場合なんかはもう、此処に何年、こうしておかげ頂く様になってから、ご信者さん方、親先生が亡くなられたと言うお夢をどれ程此処で聞いたか分からんね。だからそりゃ親先生、アンタは死ぬと言う事じゃなくて、取分け取次ぎ者として人が助かって行く事の為に、是から精進して行かなければならない。それにはね私共に言うならば、我情我欲どもがあったんじゃあ、自分も助からん人も助からん。
自分が助からなければ。それを、先生私だん何時も死んどかにゃいけない。私は親先生が亡くなられたと言う、頂いた時には、私の心の中にいわゆる不平不足が多くなって来よる時と言う風に思うと、確かに、もう不平不足なんか言う事はない様であって、思うておらんごとあって、今さっきほど申しますように。ね。不平不足を心の中に持っておる。私共のような親兄弟。子供だけじゃない、家内だけじゃない、信者さんの上にまで不平不足を持っておる。だから、ばさらか不平不足は持っとると言う事になる。
そう言う所です。そう言うお知らせを皆さんが頂いて下さる事を、はあ本当自分で気が付かせてもらう。死んだ気でと、あれ程に頂いておるのに、何時の間にかまた、甦って来ておる。何時の間にかまた、死んだはずの私が生きておる事に気が付かせて頂いて、自分を空しゅうする事にまた精進する。其処から生まれて来るのは、もう必ず新たな喜びである。ね、その喜びでまた御用させてもらう。其れをしょうるかと思うと、また今度はそれが、生き返って来る。
私共は繰り返し繰り返し自分を、いわば殺して行くと言うか、空しゅうして行くと言うおかげに、そう言う信心に入って行く稽古を繰り返し行かにゃいけません。ね。所謂死んだ気でなんです。だから上野先生そう言う事なんですよ神様が教えて下さるのは。本気でいっちょ死んだ気で御用させてもらわんなち言うてお話した事です。ね、第一ね死んだ気になりますとね、もう本当に不平不足が起こりません。私は本当に人間が助かると言う事はね、助かっておると言う事は、不平不足がないと言う。
不平不足がある間がおかげ。ね、不平不足があるからこそ向上すると云う様な考え方はないじゃない。不平がある不足があるから頑張る。こんな事じゃ足らんこんな事っじゃあ少ないと例えば思うから、矢張りあの頑張るんです。成る程それも良かろう。処がねなら不平不足が無くなると言う事。ね。いわゆる死んだ気になると言う事。もう其処には不平不足はないと言う事。其処には必ず新たな喜びが生まれて来ると言う事。
不平不足を言わんで済むという、そう言う生き方にはね、必ず新たな喜び。今まで感じられなかった喜びがある。その喜びに付いて来る、伴うて来るおかげと言うのは、ね、頑張ってから頂くようなおかげとは、だだめが違うて来るんですよ。 私は其処ん処を一つ分かってもらいたい。成る程不平不足がある事が、ね、ある事が向上する事の原動力になる事は沢山あります。ね、だからその事も有り難いけども、ならもっと有り難いのは、私が申しますように不平不足のない生活。
其処で、いわばそう言う自分と戦うて行くと言うか、そう言う自分を見つめて行くと云う生き方を教祖様は教えておられ、または先輩の元をとった先生方は、其処ん処に取り組んでの信心生活をなさっておられる訳です。ね。甘木の初代の、教歌の中にもありますように。我良しと思う心を仇として日ごと夜毎に戦いて行けと、ご自身がその戦いに向いてお出でられた。ね。其処に、不平は無くなり、不足は、の陰は薄うなって行く訳。人にどん乗って行く段じゃなか。ね。
それを不平不足を言うたり思うたりしとる時には必ず自分を見落とし風に、自分の周辺を見る事になる。そしてそんな我侭な生活させて頂きながら、もう限りない欲望が湧いて参りまして、限りない、いわゆる不平不足が心の中いっぱいをしめてしまう。其処に、人間の本当の幸せの生活はないと。ね。本当の幸せの生活をさせて頂く事の為にね、死んだ気で頑張ると。此処ん処がね、私は大事だと。
死んだ気であってジーッとしとくなら、もうどんこんされん。もう自分な死んどるとじゃけんでもうジーッとしとる。所謂死んだ気で頑張る事なんです。死んだ気で励めと言う事なの。ね。そこから付いて来る道と言う物は、もう私共が考えも及ばない道が開けて来る。ね。この61節の私はそのそこの所をですね、流れておる教えと言う物は、ね。先ず金光大神のお取次ぎを頂いて、何時までも尽きぬおかげを話にし、残しておくと仰る。何時までも尽きぬおかげの頂けれる元になるものを先ず頂けと言う事。ね。
それが一つ不平不足のない生活に入って行こうと言う道路。何処が不平不足の元になるかと言うと、ね、自分があるから、我があるから。自分が生きておるから不平不足があるのである。ね。其処で不平不足を言わんで済む稽古をさせて頂く為にです、例えば本気で死んだ気になって頑張ると言う生き方。または我よしと思う心を仇の様に思うて、その処に取り組んで、その事と対決して行く生き方。ね、人は見えない。
ただ自分の心の上にそう言う生き方を生み出している。其処から真に助かった者の姿というか、助かった様子と言う物が頂けて来る様になり、所謂今まで感じれなかった新たな喜びが其処にある。その新たな喜びを持って人に話をして行くと言うのである。ね。所謂自分自身が真の生き方を分かった。ね。自分自身が真の道に出て其処から頂けれる処の尽きぬおかげを頂かせてもらう原動力になる所を自分が体得して、ね。
金光大神が教えられた事を。違わぬ様に人に伝えて、真の信心をさせるのがと。ね。是れなら私を見て下さいと言う、私を一つの手本にして人にそれを伝えて行く事が出来る。貴方の様な生き方になられたら、どんなにか楽であろうと。第一不平がありなさらん不足がありなさらん。ね。そう言う助かりを私も頂きたいと言う事になるだろう。ね、それには、こう言う真の道があります、真の信心がありますと伝えて行く。
成る程是れなら神、神様が喜んで下さる事であろう、神様へのお礼は、是れが一番と言う事になるだろう。ね。それが神になる。それが、いよいよ私共が神様になって行けれるおかげを受ける事になる。御理解44節。私は今日はね、その御理解61節もそれこそ何日一回、繰り返し頂いたか分かりません。このここん所のご理解はね。ですから何時も頂く様な事言うたっちゃ、皆さんがまたかと思うと思うてから、新たな角度から頂かじゃと思うてね、今日はお話しているんですよ。
それでどう言う所にヒントを頂いたら良かろうかと思うて、また頂きましたら、此の御理解44節の、狐狸でさえ神に奉られる事を喜ぶと言うではないか。人は万物の霊長なれば、死んだ後、神に奉られ、神になる事を楽しみに信心せよと言う所を頂いた。ね。だから、此の61節には、私共がもう生きながらして神になる生き方。生きながらにして自分の心の中に不平不足のない、そう言う世界に安住して行けれるおかげ。
しかもその喜びを持って人に伝えて行くと言う事はです、その喜びを持ってお互いの持場立場において頑張って行くと言う事なんですよ。ね。そう云う喜びを持って、一つ頑張ると云う事。是れが、人に向けられた時にです、その人もまた助かっているだろう。また、その人も真の道を、いわゆる求めて来るだろう。ね。そこに私は楽しみに信心せよと云う楽しみがあると思う。ね、
同時に此の44節を私は、始終しせつ、と読ませて頂いた。始終死と言う事。何時も死んだ気であると云う事なのです。だから、今日のポイントになる所は、此処なの、61節。だから、そう云う角度から今日は皆さんに聞いて頂いたのであります。44いつも死んでおる気持ちなの。だから、死んでおる者が不平不足を言うはずがない。ね、そう云う例えば厳しい様ですけれどもです。
私共が本当に幸せになる為にはね、本当人間の幸福を頂く為にはね、いわゆる不平不足のない生活に入らなきゃならない。それにはね、私自身が始終死節でなからにゃ。何時も死んだ気本当にもう、昨日私がお届けしたその方はですね。もう私の嫁が信心しますけん、だいたいは、もうほんに良かちこう言う。言うからには不平不足を言わにゃ良かばってんから、まだあげんも言わんこげんもせんと、こう云う訳なんです。
もうそげなこつ言うなら限りがなか。孫が朝学校行く時におばあちゃん行って来ますちゅう事を言わん。もうそれが腹ん立ってたまらん。ね、もう自分の周囲は不平不足で一杯。それをグーグーやって堪えちから押さえてあるだけの事。それけん何かの時に爆発。だから、此の頃は嫁さんが少し悪うなっとなさる。冷たい感じになってね何時も不平不足を心の中にこうやって、爆発寸前の様な状態で在りなさいますからなんです。
私は本当にその人の顔をシゲシゲと見きりませんでした。こう相対してお話しとる時、気の毒。ね、だから金があるから物があるから、健康だからで人間は幸せはないのと、ね。本気で私共、不平不足のない生活に入る事をね試験させて頂く。其処から生まれて来る新たな喜び。その新たな喜びがです、今まで夢にも思わなかったおかげをキャッチして行くのですよ。不平不足がなからなきゃ人間は向上せん。
不平不足があるから向上する。成る程それも一理である。けれどもそれはね自分がね、少しその為に努力したから、少し余計な事が出来たと云うだけの事でしょうがね。けれども自分の心の中に不平不足のない生活。そう云う喜びそう云う信心にならせて頂くとです、其処から生まれて来る喜び。その喜びにです今まで及びもつかなかった世界が開けて来る。ね。いわゆる極楽の世界が其処から出けて来る。
真の道は其処から付いて来る。そう云う私は生き方の中にです、ね、そう云う信心を体得してです、まあ、言うならね、人を、に、いわば話をして行くなら、導いて行くなら、その人も必ずや此処ん所ですね、真の道、真の信心をさせるのがと仰る。真の信心をさせる事になって来るだろうと、こう思います。ね。昨日、私はこう言う事を頂いて、何の意味か分からなかった。ほんに解かるでしょうか。
誠、真、神心と書いてある。誠と云う字は言べんに成ると云う字ですね。それから、真、どう云う事かと思いよったら、その、今日の此の61節に神心になりてと言う所に出とりますね。神心と成りて丁寧に人に話をして行くと云う。神心いわゆる金光様の御信心はね、信心は何を説くかと。仏教が慈悲を説き、キリスト教が愛を説くならばです、金光教は真を説くと言った様な事を、私共は長年聞いて来ました。
けれどもね、真を説くと言った様なもんじゃないですね。金光様の御信心は神心を説くのです。ですから、神心となりたい時に、その神心と言うのがです。今申しました、いわゆる死んだ気でと云う、不平不足は言わんぞと。いや不平不足を思わんで済む世界と云う物にです、私共が入って行こうとする、私さっきも申します様に、死んだ気で頑張ると云う事なんですね。
是れはあの、文男先生がいつか、椛目でお知らせ頂いた事がありましたがね。真、誠。同じ、例えば是れは、同じ意義の様な感じなんですけど、字が違う。真、真心と言うのは、例えば鉄砲と鉄砲の弾の様なものだ、と云う様な意味の事を頂いた。それを撃ち出した時が、真、真心が忘れた時なの。真で思い、真で撃ちだしたね。寒い日に、もうそれこそ、凍るように寒い日に人が尋ねてきた。
お寒いですね、寒かったでしょうとこう言う、心から。もうほんの言われただけで、それまでしるしかったつが治る様にあるですね、そう云う時は。心からはあお寒うあんなさったでしょうと、心から言うと、もう何か元気が出る事でしょう。ね、それが誠。その上にです、さあどうぞと言うて火鉢を其処に抱えて持って行ってやる心が真、真心。それが、神心なのだと云う訳なんです。ね。
そう云う神心となりて、丁寧に人に話を伝えて。その前程となる所の、自分自身が助かっておると云う事は、自分自身が不平不足がないと云う生活に入っておると云う事。それなら、いっちょ自分が始終死節、ね。何時も始終何時も自分は死んだ気でおると云う事。其処には不平不足がない。その内容としてです、ね。いわゆる我よしと思う心あらとして、夜毎日ごとに戦って行くと云う。
自分自身との戦いが其処にある訳です。その修行が私は段々成就して行く時にです。もう、自分の心の中に戦いすらも無くなって来る。ただあるものは信心の生き生きとした、新たな喜びだけなのです。その喜びがです、ね、まあそれこそ夢にも思わなかった様なおかげをキャッチして行く事になるのです。信心のいわば目指しともさして頂き。それは私共が不平不足のない生活に入って行く事だと思いますね、
どうぞ。